おしゃべりな脳みそ

脳内が多動

新調

先月、なんの前触れもなくイヤホンが壊れた。

朝、駐輪場から駅に向かう道で いつも通りイヤホンの電源を入れようとするが、入らない。すぐさまネットで調べ あらゆる手を尽くしたが、何も起こらなかった。

「ダメだ。壊れた。」

正直、愕然とした。私にとって、世界から少し距離を置いて自分の世界にこもれるという意味で、イヤホンは必需品だ。

仕方なく修理に出した約一週間は、音楽が聴けないことよりも、通勤中 外の世界とダイレクトに繋がっている感覚がストレスで、いつも以上に疲弊した。

イヤホンはAppleの修理サービス(有償)を利用して、思惑通りまったくの新品になって戻ってきた。今は、新しいイヤホンをお供に楽しく通勤している。

嘘を…ついた。楽しくはない。真顔で黙々と通勤している。訂正してお詫びする。

 

最近、iMacを購入した。運良く増税前より安く買えて意気揚々とセッティングしたものの、無線になったマウスの反応の悪さに四苦八苦している今日この頃だ。

当たり前のようにiMacとか言ってるけれど、今まではその辺の安いパソコンで済ませていた。

ところが、Windowsが私の意思に関係なく勝手にバージョンアップしてくれた時、私の中で何かがプツンと切れてしまい「二度とWindowsは使うまい、次買うならiMac一択だ」と怒りに任せて決意した。そして今に至る。

iMacを買ったおかげでパソコンまわりの無駄なものを断捨離できたし、モニターカバーを縫うついでに、やろうやろうと思っていたポケットティッシュケースを3年越しで新しく作ったので達成感がすごい。なんたるカタルシス。気分爽快。

 

‪的確で無駄がなく清々しい文章を書く人に憧れる。‬その人はきっとたくさんの文章を読んできたんだろうし、ほとんど文章を読まずにそれを会得しようなんて虫のいい話はないぞと言い聞かせる。

本が好きな兄と対照的に、私は昔から文章を読むのが苦手だった。私が好きだったのはエリックカールの「はらぺこあおむし」と文章のない「SnowMan」だけだ。

今も、読めない本と読める本がある。読めないというと語弊があるが、ものによって 確かに文字は読んでいるのに内容がまったく頭に入って来ない場合がある。唯一好きな小説家 伊坂幸太郎の作品ですら だ。

大学で課題書だった「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は当然、完全に頭に入って来ないタイプの本だった。講義で指定された次回の範囲を読んでも、何も頭に入って来ない。おかげでかなり苦労したし、書いてある事を質問するという大失態も犯した。ジーザス私は貝になりたい。(石ころでもいい)

言っておくがこの話に落ちはない。今も読めないものはどうしたって読めないので、買ってそのままの本が何冊もある。

けれど、それらは夫が気が向いた時に読んで供養してくれる。最近、夫は「読書の秋だ!」と言いながら怒涛の勢いで、本の供養に余念がない。

先日は、面白かったとえらく感動した様子で、本の内容を話して聞かせてくれた。おかげで私は読めなかった本の内容を、知ることができた。その本は夫の言う通り、とても面白かった。

きっと伊坂さんの言葉で語られるそれは、もっと面白いに違いない。私も文章に宿る機微を感じながら楽しみたかった。だが、読めないものは仕方がない。諦めて読めるものを探して読むことにしている。

私が読めた中で一番好きな伊坂作品はフィッシュストーリー。これは映画も観たし、個人的に縁がある作品なのでオススメしておく。

どうしよう。すべての話に落ちがない。でも、人生のほとんどの出来事に落ちはないし、生活とはそういうものなので大目にみてほしい。