おしゃべりな脳みそ

脳内が多動

ゆるされたい

夫の休みはいつも天気がイマイチ。夫、あんなに行いがいいのに。やはり、神はいない。いるとしたら、目が悪くて夫の善行が見えていないのか、神としての職務をサボっているに違いない。職務怠慢。とにかく夫の週に一日しかない休日が晴れてほしい。最近はそんなことばかり考えている。

妻に移された風邪で年に2回しかない貴重な連休を無駄にした夫に、恵みの晴れを。アーメン。

ここまで長々と書いておいてなんですが、今回は「ゆるされたい」についての話です。夫も神も関係ない。

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いつからか、私の中には「ゆるされたい」という感覚がずっとある。気付いたのはここ数年、だけど自覚するよりずっと前からこの感覚は私の中にあったように思う。

それが、ある時ふと

「私が私をゆるしてやらなくてどうするんだ」

自然にそう思える時が来た。正しい表現なのかわからないけれど、ゆるしてやるだけの覚悟ができた瞬間みたいなものがあった。

その覚悟をくれたのは、夫だったと思う。今も、私の理由もなく譲れないこだわりを否定することなく「あなたはあなた、そういう人だというだけ」と、そのまま受け入れてくれる存在。

私は私であることを ひたすらに「ゆるされた」そのおかげで、他者をゆるすことができるようになったし、私は変わった。

それまでは、他者をゆるすという発想もなかったし、私にも良いところや、凄いところはあるはずなのにそれを認めるより先に「私はお前がクズなのを知ってるぞ」と私の中の私が常に睨みをきかせていた。いつも肩に力が入った緊張状態、生きているだけでエネルギーの消耗が激しく、疲れ切っていた。

良いところもダメなところも、同時に存在し全部ひっくるめて私という人間だということを、なかなか受け入れられず、当然他者からも「私=クズ」という評価だと思っていた。

良い評価をもらうと「この人は私を本当の意味で知らないだけ」と思ってしまう。そういう思考回路。

おそらく、これは兄に「お前は真性のクズ」「思いやりがない」「EQゼロ」などと、散々罵られていたのが大きな要因だったと思う。私はずっと家族の中で浮いていると感じていたし、兄はとにかく勉強ができて絶対的な存在だったから、彼が言うことは正しいと信じて疑わなかった。

大人になって兄に「クズだとかEQゼロだとか言われたのは、結構ツラかった」と話したら「そんな事言ったんだ。全然覚えてない。俺もガキだったんだな。悪かったよ」と言われて「兄も ただの人だった」と知った。

なんだ、そっか。そうだったのか。って

多分、私は私で兄の気持ちを考えず、正論や理屈だけの言葉をかけていたんだと思う。こちらもこちらで言った言葉を覚えていないのでお互い様だ。

話がそれた。

 

ただ「私が私をゆるしてやらなくてどうするんだ」と思っていても、どうしても自分ではゆるせない時もあるし、自分でゆるすのと、誰かにゆるされるのはやっぱり別物。だから、夫の存在と、米津玄師の音楽があると心底救われる。ありがてえ。(急な米津玄師)

私が求める「ゆるし」の空気が米津玄師の歌の中にはあるような気がして、だからこんなにも心惹かれるのかもしれない、多分そうだな。なんて。別に理由がほしいわけではないし、なにがどうであれ、好きなものは好きだけど。

多分、私の中から「ゆるされたい」という感覚が消えることはない。それでも、私を取り巻く優しい人が環境が、ゆるされている感覚をくれるだろう。

私はきっと大丈夫。

この先、夫を失ったとしても、今の日々の積み重ねが未来の私を支えてくれる気がしている。

 

誰かにゆるされたい人には米津玄師の「サンタマリア」「ゆめくいしょうじょ」あたりをオススメしておきます。すべて正しいさ、どんな日々も過去も未来も間違いさえも。です。

たとえ間違えたとしても、その間違いがあったから今がある!みたいに意味付けなくたっていい。ただ、間違えたと自覚する必要だけは、あるかもしれない。まあ、個人の見解ですけどね。

私が死んだらサンタマリア流して弔って下さい。