おしゃべりな脳みそ

脳内が多動

想像と妄想

りゅうちぇる‪のインスタの、長い長い丁寧な文章を読んだ。

やっぱり、私はりゅうちぇるという人が好きだなと思った。

タトゥーの是非については、個人的に特に主張したい意見がない。

現時点で日本でタトゥー入れたらなかなか面倒なのわかってて、それでも入れたんだから、ほっといてあげなよってくらい。私にはその面倒を受け入れてまでタトゥーを入れたい気持ちがないから、入れてないだけのこと。それは、すなわち「世の中が違えば、私もタトゥーを入れたかも」ということでもある。こういう人、実は結構いると思う。

先日、反応がありすぎて消したツイートにも書いたけど、りゅうちぇるはとても繊細な心を持った傷付きやすい人だと思う。

それでも、彼は自分の意見を言うのをやめない。インスタの文章は、それが「なぜなのか」がわかる内容だった。

 

私も「仕方ない」ではなく「変えたい」と思う事については、意見を言うようにしている。

それは簡単なことではない。いまだにとても勇気がいる。

何をどう話すかたくさんシミュレーションして、メモを片手に、緊張して手は震えるし、表情がこわばるのを感じる。眉間にシワも寄ってるかもしれない。

ただ、周りに意見するだけではダメなので、そうまでして何かを変えたいからには、自分も変わるべきところを探して積極的に「変わる」と決めている。

それが私なりの誠意。

これに関して異論はあって当然だし、仕方ないと諦める人を否定しようなどとは思わない。

 

りゅうちぇるがタトゥーを入れたことについて「自分の親だったら嫌だ」という意見は、これ以上ないほど御門違いだなと思う。

「自分の親だったら」という人は、自分の環境で自分の親で想像しているわけで、それはもはや りゅうちぇるではないのだから、その想像が果たす役割は何?とすら思う。

もし考えるなら リンクくんがどういう人物か知っている人が「リンクくんならどう感じるか?」を想像するべき。

でも、リンクくんがどういう性格でこれからどういう思想の持ち主になるかなど、我々は未来永劫知るよしもないのだから想像もできずに終わる。

SNS上に転がる「自分の親だったら」の想像は 自分の意見が正しいという前提で、りゅうちぇるのした事を批判するのが目的の勝手な妄想だと思う。

そういうのは、誰かの立場に立つことにはならないし、なんの意味もない。

リンクくんが大きくなって、もし「お父さんのタトゥーのせいで、ツライ思いをしてるからやめてほしい」と言い出すようなことがあれば、それは、りゅうちぇるが向き合うべきだけれど、現状ではそんな問題が起きているはずもない。

この手の論争を何度繰り返せば気が済むのだろう。

リンクくんが可哀想かどうかなんて、誰も勝手に決められない。なぜそれがわからないんだろう。

これは「こんなに小さなうちから保育園に預けるなんて可哀想」という勝手な意見に似ていると思う。

保育園に預けることが可哀想かどうかなんて、子の性格による。

私の友人の子は連休になると「保育園行きたい!!」ってぐずるくらいだし、友人も年配の方々に同じような「可哀想」の言葉をかけられた過去を思うと、本当に余計なお世話でしかない。

その子の何を知ってんの?

りゅうちぇるに対して「自分の親だったら嫌だ」も「リンクくんが可哀想」も、本当に余計なお世話だよ、お前誰なの?って言ってる私も誰だよって感じだけど、私はりゅうちぇるのファンだよ!

インスタの文章読んで、ますます好きになったんだよ。

長々と書いといてなんだけど、私がこんなとこで勝手に怒りをぶちまけなくても、りゅうちぇるは自分が聞くべき意見とスルーしていい意見を見分けることができる人だから、御門違いなのは私も同じだ。

 

自分だったらって例えで誰かをかばうフリして他人を傷付けるのは、もうやめませんか

あなたが想像する誰かは結局、あなたでしかない

あなたはあなたの人生しか生きれない

私もそう