おしゃべりな脳みそ

脳内が多動

クリスマスイヴ

10年前の今日、フジファブリック志村正彦が亡くなった。あれ以来、私にとってクリスマスイヴはただのムードを楽しむ一日ではなくなった。

私もいつの間にか志村の年を追い越してしまった。それが、ただひたすらに悲しい。

フジファブリックを知ったのは大学生の時だった。強烈に覚えているのは、通学中に聴いたあれでもこれでもなく、単位を取り終えて迎えた大学4年の後期に、チョコレート工場のバイトに向かう道中 何度となく聴いた「桜の季節」だ。

まだ薄暗い早朝5時半、屯するカラスを横目に駅に向かう。乗り換え不要の鈍行でゆるゆると運ばれてゆく電車の中も、駅から工場までの長い道のりも、当時付き合っていた彼に教えられたフジファブリックの音楽があった。

その人とは、ほとんど私が一方的に好きで一緒にいたようなところがあって、私は常にもやもやしていて、そのもやもやにフジファブリックの音楽がピタッとハマる感覚があったせいもあり、当時はフジファブリックばかり聴いていた。

桜の季節、虹、茜色の夕日、銀河、陽炎。季節感ある曲と哀愁漂う志村の声に魅了された。ハマるととことん の性格が災いして志村のことも当然、気味が悪いほど調べまくった。志村は私が好きな中原中也に、よく似ていた。照れ笑いで変な顔になる志村のことが、好きだった。

“私のことを好きでもない彼”と別れたのは社会人になってからだった。自分が変わる為に 自ら別れを切り出し、どうしても断ち切りたかった私は 同時にフジファブリックの音楽を絶った。もう、思い出さなくてすむように。

それから数年が経ったあの日、仕事中にYahooトップニュースで志村の急逝を知った。目にした瞬間の、時が止まったかのような感覚を今でもよく覚えている。

なぜ

あれこれと調べまくったが、ふと我に帰り ネット上に真実が転がっているわけがない、と手を止めた。気付くと、私は泣いていた。

その日から、私はまたフジファブリックの曲を聴くようになった。志村は私が距離を置いている間も素晴らしい曲をコツコツと生み出していた。

その中でも「若者のすべて」は今ではフジファブリックを代表する名曲。その素晴らしさは、私に離れていた時間を酷く後悔させるものだった。

フジファブリックが残されたメンバーで再始動することを知った時、私は泣いた。そして、昨今のめざましい活躍を一人のファンとして心から嬉しく思う。

今年の春、ヒトリエのボーカルwowakaさんが急逝した。31歳だった。

まさか、二度も好きなバンドがメインコンポーザーを失うのを目の当たりにするなんて、思いもしなかった。

発表前から、ライブ中止など不穏な動きがあって不安な数日を過ごしていたけれど、希望を持って公式の発表を待っていた。

しかし、不安は現実になってしまった。全身の力が抜けた。米津玄師の無言のリツイートにも、その後のブログにも悲しみが詰まっていた。

けれど、残されたヒトリエのメンバーは いま活動を再開している。

ヒトリエも作詞作曲は亡くなったボーカルのwowakaさんが担っていた。それでも、彼らは歩みを止めなかった。その決断を後押ししたのは、他でもない今のフジファブリックの存在なのでは、と私は勝手に思っている。

今後も、変わり続けるフジファブリックの活動、そして新しいヒトリエの活動を応援していく。