例によって好き勝手に関係ない話を適当に並べただけのブログです。
最近、ダイヤ改正の影響で毎朝 乗り換え時間カツカツの通勤になり、大好きなセブンに寄る時間がなくなってしまった。なんなら遅刻してでも寄りたいセブン。悲しみブルー。
自分にとって最悪な日が、知らない誰かの最高な日であることが、私にとっては救いです。
自分にとって最悪な日は、誰の最高も許せない人のことは、それはそれで好きです。そりゃまあ、ぶっちゃけ人によるけども。どうしたって人間くさい人の魅力には抗えない。
ツイッターやブログに書いている考え方や意見は、時間をかけて冷静な頭で選んだ私にとって最良の選択で、実生活の私はダメダメの反省な日々を繰り返し、考え方に合わせて言動を上手くアップデートできていないのが現実だ。
人としてあまりに未熟で恥ずかしくなる。けれど、それが私という人間の本性だ。なぜ必要もないのにこんな事をわざわざ書いているのかは、おそらく5年後くらいに笑って話せると思う。
なんだろう。自ら書いておきながらすごく恥ずかしい。深く海の底に沈んでしまいたい。
自分が悪いのはわかっているし、心から反省している。けれど、この反省をいかす機会は多分もうない。
昔から人生の多くの時間を考える事に費やしてきた。私は自分のダメなところを、嫌になるほどよく知っている。そして、考えるより実践の方が身になることも、この歳だから嫌になるほどよく知っている。
とりあえず当面の間は、しっかり悲しんで過ごそうと思う。悲しみをはぐらかすと、ろくなことにならない。経験上、それだけは確かだ。なるほど。これも経験か、道理で考えてばかりいても進歩しないわけだよな。
小学生の頃、大きな会場で催されたペット博のようなイベントで犬の図鑑を買ってもらった。
図鑑を眺めるうちに大のお気に入りになった白いテリアのページは、何度も繰り返し開くうちにくっきり痕がついて一度で開けるようになり、私は いつかその犬を飼いたいと思うようになった。
転校先で犬を飼うことになって、ネットで見つけたブリーダーから譲り受けたのが念願の白いテリア=ウェスティの「檸檬」だった。
震災があった年に死んでしまった檸檬は、小さな骨壺に入れられ、長いこと実家のピアノの上にいた。庭に埋めるのを、私が嫌がったためだった。
数年が経ったある日「もういい加減、庭に埋めるよ。ずっとこんなとこいたら、檸檬が可哀想だよ」と母から電話があった。
私も犬を飼い始めていたし、なんとなく諦めがついた頃だったので「わかった」と電話を切って実家に向かった。
母が穴を掘るのを眺めながら、庭に埋めずにピアノの上にあった期間は、どうしても必要な時間だったように思った。
ふと、どこかで読んだ話を思い出した。
ある人が旅行で預けていた犬が、帰ってみたら小さな骨壺に収まっていたというショックな出来事を受け入れられず、何年も骨壺のままでそばに置いていたという話だ。死因を知ろうにも遺体がなければ解剖もできず、なす術がなかった為に泣き寝入りするしかなかったようだった。好きなだけそばに置いておけばいいんだと伝えたいが為に綴られたであろうその話は、私にとって とても印象深いものだった。
檸檬を庭に埋葬した日は、家に住んでもいない娘のわがままをゆるしてくれた母に感謝した日でもあった。(私は頑固だから、勝手に埋めたらブチギレてめんどくさいとでも思っていただけかもしれないが)
檸檬は先住犬と一緒に庭に眠っている…はずだが、彼は脱走癖があったからとっくに庭から逃げ出しているかもしれない。自由で幸せならいいなと思う。
霊とか信じないけど、亡くした今もどうしたってキミの幸せを願わずにいられないな。